猫を2000匹放たれたなら

気が付けば5月なわけです。早いのです、時の流れは。
我が家に猫のミル坊がやって来てもうすぐ1年になるわけですが、その可愛さは日々どんどんと増していく一方で、すっかり溺愛している己がいて驚くばかりです。40過ぎのおじさんとなった自分から斯様な甲高い猫撫で声が発せられるのかと我が耳を疑うほどです。気付けば最近一番発している言葉は「かわゆす」という有り様なのです。しかも「かわゆす、かわゆす〜」と節を付けて歌うように発しているのです。(「かわゆす、ミ〜ル坊〜」「ミールミールミルミル坊ちゃん〜、かわゆす〜」というパターンもあります。)歌というものはこうして自然発生的に体内から生まれて来るものなのだなとその起源を見るようではっとさせられる毎日です。昨日可愛かった子が今日また可愛く、明日もきっと可愛いという現象がすぐそばで起きているのは凄いことだなと、ミル坊のふわふわの毛を撫でながらいつも思うのですが、斯様な素敵現象が世界中のどの人の身にも起これば戦争のようなものはなくなるのではないかと思いつつも、なぜかなくならないのですね。戦争という愚かな行為は。この世界には猫が、猫的なものが足りないような気がします。
芸人の永野のネタに「富士山山頂から猫を2000匹放つ人」というのがありますが、あれが現実化されたら素敵だろうなあとちょっと本気で思ったりします。可愛い猫たちがにゃーにゃー鳴きながら富士山から地上に降りて来る様子は壮観であることでしょう。その猫2000匹の波にこの身を預けたい衝動に駆られるほどです。さんざコスり倒されたラッセンのネタを未だやらされる時に永野の目が死んでる瞬間を見ることが多くなって来ましたが、彼にこそ猫の癒しが必要なのではないかと思うこの頃です。
そんな愛しのミル坊に触れるうちに猫という存在そのものを愛でたい気持ちが強くなり、近年の私の趣味であるレコード収集に猫の要素が加わり、ジャケットに猫が映っていたり描かれていたりする所謂「ネコード」を気が付けば買ってしまうようになったのですが(猫ジャケであれば何でも良いというわけでもなく、それなりにピンと来たものだけ買っている辺り冷静な私がいるのですが)、レコードに猫がいるというのは私の好きなものが2つ揃っているということなのであり、斯様な素敵なものがあろうか、いやないと反語を用いてしみじみ思う次第です。ジャケットに猫をあしらうということはその音楽に猫の要素が幾分か入っているという証左であるわけで、同じ猫好きとしてはそれを感じてみたいじゃないのとつい手に取ってしまうわけです。まあでもだいたい猫ジャケにハズレなしですけどね。猫を基準に選んで行くとバラバラのジャンルの音楽に辿り着き、色々な発見も得られて良いのです。これも猫のおかげやなと勝手にありがたがっているという有り様です。
熊本での地震の報道の中で、ペット同伴で避難する人の苦労みたいな話を見るにつけ大変だろうなと自らと重ね合わせて心配になってしまい、自分たちは猫を連れて避難など出来るのだろうかと家でぬくぬく寝ているミル坊の姿を見ながら思うのですが、猫など特に家につく動物なので他所に避難となればストレスも半端ないことでしょう。地震直後にジャパネットたかたが一日限定で商品売り上げを全部義援金として熊本に寄付というのを耳にし、これは乗らねばと早速たかたに電話しラジオを購入したのですが、これを期に防災グッズなど普段から用意せねばなあと思った次第です。一日も早く普段の生活に戻れるよう願うばかりです。
ミル坊は一日のほとんどを寝て過ごしています。「長生きしろよ」と頭を撫でると「にゃん」と返事しまた眠りに入るその姿を見ながら、世界よ穏やかであれと思う私なのです。