カルテット(小さな声で語られる)

先日、蕎麦屋にてざる蕎麦なんぞを嗜んでいたところ、突然後方から「ズズズボゥ!!!」という気の狂った猿が他者に威嚇をする鳴き声のような、古い掃除機が大きめなゴミを強引に吸い込んだような不穏なノイズが何度となく聞こえ、何事かと見やればおじさんがざる蕎麦を啜る音なのであり。昨今ヌーハラなどと、外国人が日本人の蕎麦を啜る音が不快であると唱える風潮があるそうで、日本の蕎麦は喉越しで味わうんでい、てやんでい、音を立ててなんぼじゃい、郷に入れば郷に従えい、とその訴えに抗う気持ちでいた私でしたが、おじさんの蕎麦を啜る音はその意見を覆す程酷いのであり、これほど不愉快な音があろうか、いやない!と思わず反語を用いて激おこ状態になってしまった私です。外国人の方の気持ちが何となく理解出来ました。蕎麦の啜る音は適度がよろしいのではないかと思った次第です。音もそうですが「蕎麦の啜り方が豪快なほど粋」と思っているその思想がうるさいのかもしれません。基本おじさんという生き物は蕎麦に限らず、喋り声や笑い声や咳やくしゃみなど自身が発信するサウンドが大きい傾向があると思うのですが、私はそれが苦手なのかもしれないなと思ってしまいましたね。がさつに感じてしまうというか。(まあ私もれっきとしたおじさんなのですが。)猫は声の大きい人や動作のうるさい人が苦手で、物静かな人や物腰の柔らかい人を好む傾向があるのですが、ついそれに同感してしまう私です。一緒に暮らすうちに猫の気持ちに近くなってしまったのでしょうか。声の小さい生き物の発するメッセージにこそ耳を傾けたい自分がいます。声の大きさに惑わされてはいけないのです。良いニュースというのは多くの場合小さな声で語られると村上春樹の小説にも書かれていたように思います。
さて、これを読んでいる方にとって良いニュースなのかはわかりませんが取りあえず小さな声で発表すると、来る5月14日に鎌倉molnにて久々にfishing with johnのバンド編成でのライブが行われるのです。これはもう是が非でも来ていただきたく思う次第ですが、先日それに向けてリハーサルなど行いまして。今回は楽曲を再現出来る最小人数のカルテット編成で音を引き算しながら再アレンジしてみようと思い立ち、ひじきさんとあぐちゃんと鎌田さんと私の4人で集まったのですが、ちょうどドラマの「カルテット」を見出したタイミングでもあり、「fwjカルテットだ」「別府さんだ」「誰が松たか子なんだ」などと盛り上がったのですが、ドラマと違うのはすでに長年一緒にやっている仲なのであり。ドラマの話もそこそこにいつも通り黙々と練習したんですけどね。偶然集まったメンバーという点に於いては同じですが。まあ私もドラマを途中から見出したので初期の設定や伏線をかなり見逃したまま「え、どういうこと?」と戸惑いつつ見ていたんですけどね。後追いながらも良いドラマだなと思ってしみじみ見ておりました。ライブ時、高橋一生松田龍平のような仕草が見られたり、MCで唐揚げにレモンみたいな深読み出来そうな会話をし出したら完全にドラマの影響だと思っていただいて構いません。
「カルテット」はコメディかと思えばサスペンスだったりラブストーリーだったり、親子や夫婦の物語だったり、感情があっちこっちに持って行かれる凄いドラマだったなという印象でしたが、複数人数で音楽を鳴らしたことのある人にとってはあれはやはり音楽ドラマなのですよね。バンドもそうですが様々な人生を抱えた他人同士が集まってひとつの音楽を鳴らすという物語には惹かれてやまないものがあるのです。私が思うにそれって「青春」なんですよね。それを職業にしている人も趣味にしている人も多少ならずともそれがあるような気がします。箸にも棒にも引っかからないカルテットに対し「煙突から出たけむりのようなもの」と痛烈に批判する手紙へのアンサーが、満島ひかり演じるすずめが語る「自分たちの鳴らす音楽が人に届いた時のささやかな喜び」であるのは青臭いけれども真実であるのだよなあ、てへへ、と思ってしまう自分がいるのです。それで言うと世の中けむりだらけになってしまうけど、出さずにはいられないのですよね。楽しいから。私も長年やって来て自分のけむりで真っ黒になっている人をたくさん見て来ましたけどね。
最近になって草とten shoesというバンドに参加し始めて、初心者の岩崎さんが「今回はうまく演奏出来た!」と大喜びする様子を見て「そういや昔は自分もこんな感じだったな」と思い出したりしたのですが、初期衝動をたまに取り戻すのも大事なのかもしれません。fwjカルテット、届くと良いなあと思っています。すずめちゃんの気持ちで。(小さな声で。)