7月の現状

7月に入りいよいよ夏全開といったところでしょうか。元々暑さに強い(寒さには滅法弱い)体質ゆえ、未だエアコンレスで過ごしています。夕方時間があれば海まで散歩に行き、夕焼けの瞬間を見送るようにしています。毎回行く度に海に向かってトランペットの練習をしている人に遭遇するので、その人のつっかえながらの旋律と音色をバックに波と夕焼けの融合をスマホのカメラに収め、インスタにアップし、いいねを貰うという世のOLさんの如き所業を重ねています。トランペットの音は小々波に吸収され、やがて夜の海の奥へと消えて行くのです。あと何回夏の夕焼けを見送ることが出来るのだろうかと思いながらスマホ越しに紅い空を眺めています。家の近所ではヒグラシの鳴き声が聞こえるようになりました。夏の短さと長さを同時に体感しながら7月を過ごしている私です。
先日は鎌倉に引っ越して来て初めて、鎌倉の花火大会を見に行ったのですが、やはり花火は良いものだなとしみじみ思いましたね。開催時間に海に着くと、いつもトランペットを吹いている人がいる海岸にすでに埋め尽くすほどの人々が集い、シートを敷いたり椅子を設置したりし、波の音に包まれながら今か今かと花火を待ちわびておりました。私は妻と友人と3人で見に行ったのですが、どうせなら最前列が良いと波打ち際ギリギリの場所にシートを敷き、酒とつまみをいただきながら、やがて始まった夏の夜に華やかに開かれる祭典を存分に堪能しました。ドンドンという音と煙の匂いとカラフルな色彩が相まって、これまでの夏の記憶の断片も蘇り、切なさのようなものが去来するのですが、この感覚がまた良いのですよね。夏独特のセンチメンタルが。今や手元にスマホがあり、動画と写真両方でこの花火大会の模様を保存出来、後でまた味わえるだけでなく、インスタにアップし、いいねを貰えるというオマケまで得られるのですが、スマホもカメラもなかった幼少や思春期の頃の花火や夏にまつわる記憶も鮮明に思い出せるし、それに伴う感情も覚えているのでまあそんなものはいらないと言えばいらないんですけどね。(その実、私も妻も写真と動画を撮りまくっていましたが・笑)きっとこの日の光景も後に鮮明に思い出すのであろうなと思いながら帰路に着きました。いつもトランペットを吹いている人もあの花火を見上げていたのでしょうか。いつも自分が旋律を放っているあの海岸で。
毎年夏になると聴き返してしまうアルバムが真島昌利の「夏のぬけがら」という名盤で、もう20年近く愛聴しているのですが、アナログ盤で再発されないかなあと以前から思っていたところ、この夏アナログ化されるとの知らせに歓喜し、早速入手して夏の空気に再生しています。夏の切なさがぎゅっと詰まったレコードです。CDやデータで持っているものをレコードで買い直すという行為をしばしばしてしまうのですが、これは決して無駄なことではなく、愛着や思い出を更新し直すという意味でとても大事なことなのです。好きな本が文庫化されたり新装版が出たら買い直すのも同様です。というのはまあ自分への言い訳で、端から見たら何で同じ物を複数買う必要があるんだという感じでしょうけどね。好きという気持ちを再確認するためにする買い物もあるのです。レコードって素晴らしい発明だなあとしみじみしながら針を落としています。
ミル坊はというと、暑さにも負けず一日中寝ています。寝ても覚めてもその可愛いさは揺らぎません。猫が可愛いとか、夕焼けが美しいみたいな世の真理を再確認しながら過ごしています。国会で頭の良い人たちが次々と記憶や記録をなくしたり忘れたりしている様を見ながら、私は夏の思い出を忘れぬよう更新し続けていこうなどと思っています。国会と言えば、いつぞやの菅官房長官の「怪文書がひとり歩きしている」という言葉の、己の発言への責任感のなさと距離感と正当化にぞっとしたのですが、彼の全ての感情をゴミ箱に捨て去って来たかのような空虚な様子を見ていると、果してこの人は生きていて幸せなのだろうかとふと思ってしまう私です。彼も猫が可愛いというような感情を抱くのでしょうか。それが総理の意向と違えばその指摘は当たらないと本気で思うのでしょうか。猫の絶対的な可愛さを前にして。
それはさて置きミル坊の可愛さはひとり歩きしているなと思いながら7月を過ごしています。暑い日が続きますが、みなさまもご自愛ください。