師走レス

気が付けば師走なのです。もうすぐ2018年も終わりなのです。本当に早いのです、時の流れは。
今月は貸切り図書館のtico moonさんのライブがあったり、山田稔明with夜の科学オーケストラのライブがあったり、ミルブックス藤原さん宅でのお鍋会があったり、年末の催事の準備があったり、バタバタしているうちに過ぎて行きました。このままの勢いであっという間に新年を迎えるのでしょう。
そんな師走ですが、ソフトバンクによるスマホ決済サービスpaypayが100億円あげちゃうキャンペーンなるものを行うと聞き、100億円くれちゃうの?なら私も欲しいわん!とばかりに早速アプリをインストールし、ビックカメラで家電でも買おうかしら年末にでも!と構えていたらあっという間にキャンペーンが終了してしまい。私のpaypayにはアプリを入れると貰える500円だけがぽつんと残されることとなったのですが、何だったのでしょうかあの騒ぎは。スマホに映る「500円」という表示を見て、これは本当に500円なのか?ただの数字ではないか?と思う一方、そんなこと言ったら財布の中の1000円札も果たして1000円なのか?ただの凝ったデザインの野口英世ポートレートなのでは?と思えて来るので、貨幣ってつくづく概念であるのだなと実感させられますね。野口英世ポートレートで国民が経済を回していると知ったらご本人は何と思うのでしょうか。「え、俺のポートレートで日本人買い物してんの?やだやだ、恥ずい〜!」と思うのでしょうか。ATMや自販機に吸い込まれる己の顔を見て「やだ〜吸い込まれる〜どんだけ〜」とか言うのでしょうか。
以前フィンランドを訪れた際にペットボトルの水1本買うにもカードを使うという徹底したキャッシュレス文化に驚いたのですが、キャッシュを維持するコストや利便性から言っても日本もいずれそうなるよなあとは思いつつも、それをスマホ1本で担うのは大丈夫なのかなあとこの間のソフトバンクの通信障害騒ぎを見るにつけ思いますね。私にしたって音楽聴くのも動画を見るのもラジオを聴くのもスケジュール調整も、電話やメールなどすべての連絡もこのブログを書くのだってスマホを使用しており、そこにさらに財布の機能まで負わせたら「ちょ、俺に頼り過ぎじゃね?も〜どんだけ〜」とパニックになりそうなものですが。最近はチケットもスマホだし、スマホ依存が過ぎるのではとちょっと心配してしまう私です。夏に突然スマホが死亡した時は文字通り何も出来なくて(まず電話やメール、ラインなどの連絡が一切出来ないのがきついです)、全機能をスマホに入れておくのは危険だなとつくづく思ったものです。ある程度機能を分散しておくのが良いのかもしれません。
しかしキャッシュレス文化が定着すると失われるのはお釣りをジャストにする支払い文化でしょうか。1866円の買い物に2416円払うみたいな芸当です。ちょうど今日378円の買い物に533円払ったお客さんがいて実感しましたけど。端数を0か5に落ち着かせる計算厨が世の中にはいるものです。私なんかはレジの前でちまちま小銭を探している時間が嫌なのでパッと紙幣を出してしまい常に小銭が溢れてしまうのですが、キャッシュレスになるとそういうこともなくなるのですね。
あと祝儀に入れるピン札という文化もなくなるのでしょうか。最近は神社の賽銭もICカード対応のところがあると聞きます。ご祝儀もスマホ払いとかになるとピン札に代わる文化が現れるのでしょうか。水引きの絵文字を一緒に送れるとかはありそうですけどね。祝儀や香典をスマホで、みたいなサービスは本当に登場しそうな気がします。色々な文化がキャッシュレス化に変わって行くのでしょう。貨幣が物体化されない世界がやって来るのです。
まあそれにしたって高輪ゲートウェイなるネーミングのダサさたるやです。世の片仮名で後ろに付けるとダサい単語選手権があったらぶっちぎりの優勝がゲートウェイなのではないでしょうか。辺野古埋め立ての件もそうですが、水道民営化だの入管法だの民意が反映されずに様々なことが勝手に決定されて行く世の中がおそろしいです。アメリカ様から戦闘機100機買うなんてニュースを見て「戦闘機が買えるくらいのはした金ならいらない」というブルーハーツの歌う皮肉を思い出しました。阿呆が権力を持つと碌なことになりません。キャッシュレスならぬ阿呆レスな世界になることを願うばかりです。
そんな師走です。猫の可愛さだけが正義です。みなさん風邪などひかぬようご自愛下さい。