再び朗読せよ、乙女

前に「朗読もののレコードが好きなんです。」
というような話をここに書きましたが、
http://d.hatena.ne.jp/fishingwithjohn/20060821
先日リリースされた大谷能生氏のソロアルバム、
『「河岸忘日抄」より』が何と朗読もので、
「これは私のために作ってくれたレコードなのかしら。」
と一瞬思ったくらいなのですが、
大変素晴らしい内容で私は感激しましたよ。
堀江敏幸氏の「河岸忘日抄」という小説を
大谷さんが音楽に乗せて朗読しているのですが、
バックに流れる音楽と相まって実に音楽的で、
言葉を発する行為を音響として捉えている点では
言葉の内容を伝達する目的やそれに伴う演劇性をメインにした
これまでの朗読ものとは違う作品になっていて、
大変興味深い試みだと思いました。
言葉を発することが音響として機能するという点では
私はここでの朗読がリズムを伴うとそのまま
ビッケ氏のラップみたいになるんじゃないかと思ったのですが
(声が意外にもちょっと似ているのですよね)
ソウルセットとか聞いてても私は
歌詞自体は結局何が言いたいのかよくわかんなくて
意味として言葉の内容はあんまり入って来ず、
ラップも単に音色として聞いている場合が多いのですが、
意味よりもサウンドとしてまず入って来るというのは
それはそれで正しいんじゃないか、音楽だし。
というのが私なりのビッケ評なのですが、
ここでの大谷さんの朗読も言葉が断片的に
意味として聞こえる瞬間も勿論あるけれど
大体が「音」のひとつとして耳に入って来るので
これは純粋に音楽作品と言えるんじゃないかと
私は思いましたよ。
私はこの小説を文章で読んだことがないので
意味が先に入らないというのもあるんでしょうけど、
何度となく聞いてるうちに「コーヒーにうるさくて」とか
「あれはジャンべでしょう」とか、断片が入って来て、
そこからイメージが浮かび上がる瞬間が
音楽になるような感覚があって、
むしろ読まずして聞いた方が楽しめるような気もします。
(「フォルテッシモ」とか割と音楽的な記号が多く登場するので
この作品を選んだのかな、とか思いました。)
こういう「音楽作品」もあるというのを
提示する行為は素晴らしいんじゃないかと思います。
こういう形での言葉へのアプローチというのは
個人的に共感を覚えてしまうのですよね。
テニスコーツの植野さんとかsimの大島さんも
演奏に参加していて、バックの音も楽しめます。
ぜひ興味ある方にはお勧めです。
その大谷能生さんとfwjですが、2月にライブで共演する予定です。
そちらもぜひお楽しみにということで。


ところでfwjの「林檎にタッチ」、絶賛発売中です。
近所のコンビニの店員の山本さん(二十歳くらいの女子)が
店を出た私に「さりげなく売れると良いですね!」
と言ってくれたので、「え?」と良く聞き返してみたら
「ありがとうございましたー。」と言っていただけでした。
「そっか、『ありがとうございました』だけか。」と
少しさみしいような気持ちになって私は店を立ち去りました。
そんな感じの12月が続いています。
どうしたものでしょうか。