風鈴フリーダム

昨日、お客さんの風鈴の絵付けに驚かされた話を書きましたが、
今日もちょっとした驚きがありまして。


小学校5年生くらいの少年が来て風鈴に絵付けをし出したんですが、
やおら風鈴を真っ白に塗り始めたんですね。
で、その白地に何を書くのかなと見てたら黒ででっかく字を書き始めて。
何のメッセージが現れるのかなと思って様子を見てたら
球体を囲むように「自由に」という3文字を書いたんですよ。
それだけの凄くシンプルな作品なんですけどね。
少年はそれで「よし、完成!」と満足気に差し出したのですが、
それが凄く潔くて力強いデザインで私の目を引いたんですよ。
夏の風物詩にフリーダムのメッセージを掲げるそのセンスもまた
ちょっと良いなと思ったりして。
それって風鈴を飾ってる自分自身が自由でいたい、
自由でいるべきだという意思にも取れるし、
どうぞご自由に吹き抜けて私を鳴らしていってくださいという
風鈴自身の意思とも取れるし、
あらゆる事象から自由でいるというある種困難な目標を
さらりと3文字で球体に記す少年の軽やかさに
大人な私は「ああ、負けた!」と敗北すら感じたんですよね。
(大げさかもしれないですけどね)
この少年の自由は大人の私の自由よりも確かな意味で自由なのであって、
その自由に眩しさのようなものを感じてしまう自分がいたわけですよ。
昨日の自然と都市名を織り交ぜた字によるグラフィックアートもそうですが、
風鈴の絵付けというイベントを前に決まりごとのように
「上手に絵を描こうとしてしまう」ある種の不自由さにいる
自分にも気が付いてしまったわけです。
多分適当に書いたと思われるその字体とデザインが凄く良かったんですよね。
つまりはこれが自由ってことじゃん、みたいな軽やかさで。
まあ昨日のも今日のも現物がなくて説明だけしてると
そんな大したものじゃないじゃないと思われるかもしれないですが(笑)、
無意識に表現されたものにキラリと光るアート性を見出すことも
ある種の才能じゃないかと私は思っていて、
言わばそれが感受性というやつなのであり、
それを鈍らせていては自分自身からも光を発することは出来ないわけで
些細な事象に感動を見出していく作業を
怠らないようにするべきだと私は思ったりもしたのですよね。


小学生が記した「自由に」というメッセージを前に
自由である自分を発見できる人っているんでしょうか果たして。
「見えない自由がほしくて見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ」とはよく言ったものです。


ちなみにサバンナのボケ役の人がやってる犬井ヒロシ
「何とかフリーダム〜」ていうネタはちょっと面白いですね。