私、ピーマンの中身を考察して

文化放送のラジオ番組で大竹まこといとうせいこう両氏が
トークしていたのを仕事しながら聞いてたんですが、
例によってずっと植物の話だったんですが(笑)、
そこで「ピーマンに中身がないのも必然性があるからだ」
みたいな話をしていて、なるほどと思ったりしたんですが
考えてみたらピーマンて半分に切ると器の如きフォルムで、
「ここに肉を詰めてくださいませ」とでも言いたげな、
「ピーマンの肉詰め」という献立ありきで
あの形に成り得たのではないかと思えるような様相なのであり、
ああいう形状への経過が何とも不思議に思えるわけですが、
それも必然があってあれに落ち着いたわけですからね。
ただああいう風に落ち着く以前に実は中身があったのではないか、
その中身が何かの政治的圧力などの事情で「やっぱ無し!」と、
変更を強いられたのではないかなどと思うと、
その中身に想いを馳せてしまう私がいるのですが如何でしょうか。
「思想」「概念」「情熱」「恋心」など詰まっていたとしたら。
それらの欠けたピーマンに我々はせっせと肉を詰めていると思うと
何とも味気ない感じがしてしまいますよね。
まあ実質的な味は増していますけどね。
ちなみに焼ピーマンに生姜と醤油を垂らして喰らうと旨いですよね。


ところでこの間鑑賞したポツドールの芝居において
幕間毎に大音量で流れていたボサノバ有名曲のタイトルを
ずっと思い出せなかったんですが、
探したらうちにアストラッド・ジルベルト版があり、
見たら「How Insensitive」というタイトルで、
これの邦題が「お馬鹿さん」ていうんですよね。
このお茶目な邦題センスも素晴らしいんですが
この曲をあの芝居で流すセンスもまた素晴らしいなと思いました。
誰かが何かしでかした時など愛情を込めて言ってあげたい言葉です。
お馬鹿さんだなあ。と。


私も誰かに言って欲しい瞬間がありますよ。
この日々に於いて。