表現の強度、ハイもしくはロウ

過去の自分のファッションを写真などで見かけると
「うわ、当時こんな格好してたのか自分」と
微妙に気恥ずかしい思いをすることがあるのですが、
恥ずかしいと思うということは現在の自分の趣味嗜好、
時代的な観点から微妙にずれていると感じるからで、
主観、客観双方から感じる違和感によるものだと思うのですが、
たまにこのブログに書かれた自分の過去の文章を見ても
同様の思いをすることがあって、
「うわ、当時こんな文章書いてたのか自分」と
微妙に気恥ずかしい思いをすることもあるのですが、
それって文体そのものや嗜好(思考)の変化が日々あるからで、
自分では同じようなことを書き記しているつもりだけど
微妙に言語や思考が変わって来ている証拠でもあって、
それってある意味成長しているとも言えるわけなので
まあ良いことであるとも思うのですが、
そんな過去の言葉の中でも稀に今読んでも新鮮で
面白いと思える普遍的な表現をしている箇所があったりして、
そういう時の流れと関係ない表現の強度の高いものが確かにあって、
そんな部分を掬い出して再構築するような積み重ねの作業が
表現の核を成す上で必要なんじゃないかと思ったりするのですが、
そういう意味でも音楽や言葉やら日々何かを記しておくという行為は
表現にとって大切なことのように思ったりするのですね。
どうでも良いような事象についても。
と、先日某女史と某打ち合わせをした際に思ったりしたのですが、
そういうことに常に自覚的でいようなるべく。
と改めて思ったりした次第です。


ところで先日鑑賞した芝居は毛皮族という劇団のものだったのですが、
私は初見だったので過去の公演との比較が出来ず、
こういうものかと素直に受け入れて楽しんだのですが、
どうやら普段はもっとエロとアングラ度の高いものらしく、
その片鱗が伺える第二部の方が確かに見てて面白かったですね。
(第一部はポツドールぽい割と重たい内容でした)
エロといっても女子目線の軽いものと私は受け取ったのですが
一緒に見ていた女性陣は「あれは男性へのサービスですよね」という
逆の捉え方をしていたので、
性別によって印象が違うんだなと思ったんですが、
女性が提示するエロってどっちに向いてるのか方向が定まってる方が
表現として強度が高いんじゃないかと思ったりしたんですけどね。
毛皮族って女性が主宰の女性中心の劇団なのですね)
あと妙に哀愁に満ちた音楽がなかなか良かったなと思いました。
こういう舞台の音楽というのも一度手掛けてみたいんですけどね。
一度私の「夕方ループ」という曲が(なぜかライブ版の方が)
舞台で使われたことはあるんですけどね。
その時は客席で聞きながら、良い曲だなーとしみじみしたりして
自画自賛したのを覚えてるんですが(笑)、
こうして書いておくとそのうちまたオファーが来るかもしれないので
何となく記しておこうと思います。
そういうのも表現にとって大事じゃないかと思うわけで。