黄昏タイムマシーン

先日、親戚関係の不幸があったので通夜に出席したのですが、
まあ不幸っても97歳のおばあさんで、ある意味大往生なわけで、
哀しみムードも特になく親戚が集まる会みたいな様相だったわけですが、
3歳のやんちゃな頃の記憶で止まっていた親戚の子に久々に会ったら
すでに大人びた中学生になっていて、普通に携帯いじってたり
ニンテンドーDS的なゲームを黙々とエンジョイしてたりして、
え、あの子がこんな大きくなっちゃったの?と、
時の経過をまざまざと見せつけられた格好になったのですが、
成長の過程をすっ飛ばして会うと何だか不思議な感覚に陥りますね。
タイムマシーンで未来に行っていきなり成長した姿を見ると
こういう気持ちになるのかもしれないと思ったりしたのですが、
タイムマシーンは今のところ存在していないので
その真意の程は確かめようもありません。


それにしても私は普段からスーツにネクタイという格好をしない故、
冠婚葬祭時にたまにそういう格好をすると似合わないことこの上無しであり、
ネクタイも「あれ、どうやって締めるんだっけ?」と
毎回格闘しながら着用するという体たらくなのであり、
ネクタイもスマートに着用出来ぬ己の社会人失格ぶりに天を仰ぎ、
ギターで「禁じられた遊び」の哀し気な旋律を奏で、
夕陽に体育座りで黄昏れてしまいたい衝動にも駆られるのですが、
いっそネクタイを締める代わりにギターで「禁じられた遊び」を奏で、
それで勘弁してもらえないだろうかと懇願したい気持ちもあるのですが
通夜の席でギターを上手に弾いても褒められないどころか
「この痴れ者が!」と叱咤されること必至なわけであり、
ギターが弾けるというのは現実社会ではあまり役に立たないことなのだなと
己の小さき存在感にまた「禁じられた遊び」を奏でてしまう私がいるのです。
哀しいです。
ひとり弾く「禁じられた遊び」の旋律は。


それにしても今年の冬は雪が多い印象ですが、
雪は音もなく降り、まるで沈黙が落ちて来るような感覚で積もり、
やがてその存在感が増したところで雄弁に何かを語り出し、
私たちはその訴えかけて来るかのような雪の光景を目にして
何かを感じたりするわけですが、
蓄積された沈黙が逆に雄弁に語り出すというその成り立ちこそが
ロマンチックそのものなのであって、
雪を見て何となく胸高まる感じというのも
その成り立ちに大きく由来するものなんじゃないかと思ったりします。
過去に見た雪の光景やそれにまつわる経験や思い出が
現在の視線や想いと絡まってある感情として立ち現れるというのは
ある意味タイムマシーンで過去を覗き見るような感覚と同様で、
雪というのはそういう記憶や感情を喚起させる装置とも言えるわけですが、
これが雪国などでは雪は日常の光景に過ぎず、
「雪かきをしなければならない」などの労働にもつながり、
そんなロマンチックな感情は生まれ難いと思うと
雪が珍しい土地にいて雪如きに感動出来るというのも
ある意味ありがたいんじゃないかと思ったりもします。


ところで今日、TBSラジオの「ストリーム」という番組で
キセルが生演奏してたのを偶然聞き、
不意に感情の隙間を衝かれたような感じがして私はすごく感動したのですが、
不意に聞こえて来た音楽に感動するという出会いのような、
小さな運命みたいなものを音楽を介して感じられるのは
とても素晴らしいことのようにふと思ったのでした。