私、夏音をキャッチして

今朝、地味に蝉が鳴き始めたような気がしたんですが、
何かの空気の動きがそれっぽく聞こえただけで
気のせいかもしれないな、なんて思ったりもしたのですが、
夏のノイズは冬よりも輪郭が曖昧で、
蝉も微風も車のエンジン音も太陽光線も向日葵も
同じ画用紙にだらだらと重ねて塗られていくように音を放っているので、
たまにどれがどれだかわからなくなるのですね。
夏独特のうるささというか。
もう「まとめて夏と呼ばせてもらうぜ」くらいの
豪快な認識でいきたくなるような感じですが。
(それが夏の面白さでもあるんですけどね)
しかし風鈴の音だけはその中でも明確に浮き上がるので、
風鈴が鳴らされるタイミングを何となく待つようになるのです。
そして聞こえると「お、風鈴だ」と思わず口にしてしまうのです。
まあ風鈴が吊るされている現場もそうそうなくなりましたけどね。


生まれつき耳の聞こえない老人が聴覚を得る手術をし、
いざ世界のサウンドを耳にしたら最初は珍しくて
そこら中を叩いて音を鳴らして楽しんでいたそうですが、
やがてはパニックを起こして聴覚のスイッチを再びオフにしてしまったそうですね。
音の情報量の多さについていけなくなったらしいのです。
私たちは普段様々な音を耳から得ているわけですが、
必要な音だけを主に聞いていて他のノイズに対しては注意が薄れているのですね。
目の前で喋ってる人の声が聞こえにくければ集中して聞こうとし、
自ずと周囲のノイズを遮断しようとする作業を行うというような、
フェーダーの上げ下げが自動的に成されているわけです。
よく「あんた、人の話聞いてるの?」と怒られたりする人は
確実にその人の話のフェーダーを下げているのでよく聞いていないのです(笑)。
海の近くに住む人は波の音が聞こえなくなるというのも
似たような状況なんでしょうかね。
そうやって実際に聞いてはいるけど認識していない音があるものですが、
それは成長していくに従ってそういう訓練が為されるのであり、
老いてから聴覚を得た老人はその作業が自然と出来ないらしいのですね。
それで聞こえる音の多さに付いて行けなくなりパニックになるそうなんです。


情報が氾濫する状況の中で必要なものをチョイスしていく作業は
かなり重要なことのように思えるのですが、
聞くべき声や音に耳をすまして行く作業も大事じゃないかと思うのですね。
我々は聞き分ける機能を持ちながらもそれを充分活かし切れてないのかもしれません。
大事な合図を聞き逃していやしないか。
誰かの声をキャッチしてあげる余裕があるのか。
自分の声しか聞いていないのではないか。
美しい音楽を聞き逃すまいと私は普段から耳をすましているわけですが、
たまに美しい調べを聞き逃していたりします。
聞きたくない音を聞いてしまって傷付く場合もあるわけで。
「ノイズを黙らせるためにさらに大きなノイズを出すのだ」という
メルツバウの発言を思い出しますが、
そうやって自分がどういう音を出して行くのかも
まずは注意を払って聞いてからでないと判断出来ないような気がしますね。
ちなみにこれは大きく比喩的な意味で書いてますけどね。


夏なので涼しいギターの音を鳴らそうかと思います。
私はギターリストですので。
そして清志郎氏の回復を祈ります。
私は彼のファンですので。