私、小沢健二を鑑賞し

ちょっと前の話ですが、小沢健二「東京の街が奏でる」第七夜を鑑賞しました。
チケットをご好意で譲っていただき見ることが出来ました。
感謝です。
2年前の公演も(これまたチケットを分けていただいて)見に行ったんですが、
その時は「生きてる!」「本人が目の前で歌ってる!」という衝撃が大きく、
小沢健二のライブ」をどう判断してよいものかわからない感じだったんですが、
今回は彼がどういう意図でどういう活動をしようとしているのか、
本人の口から朗読というスタイルで観客に語られ(それは彼らしい比喩を用いた寓話などで)、
何となく腑に落ちたという印象です。
「休業宣言」についての話などは自分が長らくシーンから身を引いていたことへの
落とし前のような内容にも思えたし。
(この時の発言がネットで「パーフリ再結成?」という記事になってて呆れましたけど)。
「信じるということ」みたいな朗読を聞くと
「この人の思考と視点は外国人のそれなんだなあ」と思ったりしたんですが、
実際この10年日本を離れて世界各国に住んでいたわけですしね。
そうやって世界を見て来て「自分はやはり日本人である」という再認識をした結果が
「ひふみよ」だったり「シッカショ節」だったり英詞の日本語約だったりしたということで、
その世界を見て来た自分(いわば自分探しなんですかね)の記録が
パルコでの「我ら、時」という展示でまとめられたということなんでしょう。
(私は正直あの展示は「だから何なん?」と思いましたけど・笑)
オザケンはもう既成の日本の音楽シーンやそのサイクルに一切関わらないで
(アルバム作ってプロモしてツアー回っての繰り返し)
独自にライブ活動をしていくし独自に作品を発表していくし、
ツイッターだのブログだので声明は発表しないし、
音楽雑誌などの既存メディアでは語らないのでしょう。
彼が声明を発表するホームページも「作品」のひとつでしょうし。
ライブ会場でお客さんの前で「語る」ことを選んだのでしょう。
今回強く思ったのは小沢健二は「独特」でもう唯一無二の存在になりつつあるなあということです。
日本でのレコード会社との契約がどうなってるのか知りませんが、
思い出したように復活し、テンション(値段も)高いボックスセット発売したり、
タケミツメモリアルホールのような場所で作り込まれたライブを行ったり。
「枠?ないっしょそんなの」みたいな自由さです。
今回客席に若い人があまりいなかったのはチケ代のせいもあるんでしょうが、
かつてオザケンに熱を上げていた(私のような)世代が多く、
懐メロ大会のような閉鎖的な空間になってしまっているんじゃないか、
それは小沢健二のような才能には勿体ないのではないかと思ったりしたんですが、
まあでも前回と今回の公演は新たに活動を広げるというよりも、
かつてのファンへの落とし前みたいな意味合いなのかなと思ったりもしたんですけどね。
(新しい試みもあったし決して懐メロ大会ではなかったですけどね)
活動を長く持続して新しいファンを増やしながら古くからのファンも満足させながら
定期的に新しい作品を作っているアーティストはいっぱいいるわけですが、
小沢健二はそれを長らく休んでいたわけですが。
彼が新しいファンを増やす機会は新作を出してからのことなんでしょう。
まあしかし懐メロ大会の要素もそれはそれでありなんですけどね。
「愛し愛されて生きるのさ」で彼の若き日の映像が流され、
それに時の経過を重ねて涙したという声が見受けられましたが、
そのような演出も美しいと思いましたし。
(今回メトロノームを用いたのは『時』のテーマのアイコンということなのでしょう)
私は今回の3時間半のライブで3度ほど感動で落涙したんですが、
それはしかしノスタルジーによるものというより、
改めて彼の言葉の強度と普遍性に心打たれたからなんですよね。
小沢健二は素晴らしい言葉の使い手であるということを再認識しました。
特に初めてライブでフルで聞いた「春にして君を想う」と「ある光」は良かったですね。
「ある光」など何度CDを聞いたことでしょうか。
弦楽四重奏のアレンジ(服部隆之氏のペンによるものだそう)も素晴らしかったですし。
「力まかせに衝きつける狩りのような風」が巻き起こっていたように思います。
しかしあの曲だけエレキでしたが、打楽器のいない編成は奇妙でしたね。
打楽器がまさかのメトロノームだけという洒落た演出でしたが、
ギターとベースとお客さんの手拍子がリズム出すから打楽器なくてオッケーよ、
みたいな指示だったんでしょうかね。
あの編成からして独特だなあと思いました。
(個人的には渋谷穀氏のピアノとかあったらなあと思いましたが)
今回彼はギターを取っ替え引っ替えして上品なアレンジを聞かせていましたが
(ギタープレイが複雑ゆえ前を向けないからインカムマイクだったんでしょうか)、
その様はジョアン・ジルベルトみたいだなあと一瞬思ったんですが、
静かに語るというよりいつもの通りハイテンションで歌うので
「やっぱ全然別ものだな」と思った次第です。
彼のピッチは相変わらず不安定だし、
力が入ると声の音量が半端なく上がるし、
妙に野太い声で語尾だけやたら伸ばすし(笑)、
打楽器のない静かな演奏ゆえ声が目立ってましたが、
まあでもこれがオザケンかあと思ったりしましたけどね。
「僕らが旅に出る理由」を聞きながら「嗚呼、この人は旅から帰って来たのだな」と思いつつ、
彼の新しい言葉とメロディーにやはり私は耳を傾けていくのだろうなと思った次第です。
他にも色々細かい感想を抱いたんですが、それはまた別な機会に語ります。
客席のかつてオリーブ少女だったであろう女子たちの頬はいちごのように染まっていたことでしょう。
そんな夜でした。