5月のバケラッタ

心地良い風に吹かれてラララ〜という平穏な5月を過ごしたいと願ってやまない私ですが、
埼玉、千葉の浄水場から基準値超のホルムアルデヒド検出という、
大変に心地良くないニュースが聞こえて来てわわわ〜という感じになっています。
ホルムアルデヒドなんて完全に悪側の名称でしょう、語感からしても。
最後の「ヒド」が酷い奴と書いて「酷奴」という漢字を当てるのではないかと
真っ先にそんなことを思ったりした次第です。
他に思うべきことがたくさんあるだろうにという話ですが。
これを受けて水道水を必要以上に利用しないようお達しがありましたが、
水ばかりは使わないわけにはいきませんしね。
人間は水がないと生きてゆけぬ生き物なのであるなと再認識した次第です。
かつて部活の終わりに蛇口から直でごくごくと喉を鳴らしながら水道水を飲み、
こんな美味い飲み物がこの世にあるのかと思ったものでしたが。
夏の西日に煌めく水道水と青春の日々。
あの頃のお前は光り輝いていたなあ、そして今のお前は汚れてしまったなあと
水道水とかつての己に語りかけたりした次第です。
何とかして欲しいものです、酷奴。
そして汚れちまった自分。


話は変わってフェイスブック株式上場のニュースですが。
私も一応フェイスブックを利用しているんですが、
何となくツイッターの一方通行な感じの方が気楽なので
ついツイッターばかり見てしまうのですよね。
フェイスブックをメインに見ている人の方が多そうですが。
あれってどこの誰だか面識もない顔も名前も知らない人からフレンド要請が来たりしますが、
あれの目的は何なのでしょうかね。
いや待て、きみと私はフレンドではない、会ったこともないじゃないか!と
小一時間ほど説教したい衝動にも駆られるのですが。
そういう人もよくわからないうちに承認しているとどこの誰だかわからない人の
「今日のランチはこれで〜す」
みたいな投稿をたまに目にすることになるわけなんですが、
どこの誰だかわからない人のランチメニューほど興味のない事象がありますでしょうか。
結局そういうのが面倒なのでたまにしか見ないということになってしまうのです。
あと「いいね!」ボタンというのも確かに人の投稿に共感した場合、
コメントを残すほどでもないけど共感した旨を伝えたい時に大変便利なんですが、
あれも「おお、これは良い記事だ!素晴らしい!いいねえ!」のホットな時もあれば
「うむ。まあまあいいんじゃないの、いいね」みたいなクールな時もあり、
それをすべて「いいね!」の三文字に込めてしまうのは乱暴なのではないか、
若者が褒める時も貶す時も嬉しい時も哀しい時も「ヤバい」の三文字で片付けるのと同様、
言葉の簡略化が過ぎやしないかと思ったりもするのです。
私の「いいね」にまつわる心の機微はあなたの思う10倍は繊細なのよと
それこそ140字の連投により説明したい衝動にも駆られるのですが
(だったらコメント残せば良いじゃないかという話ですが)、
なかなかもどかしいものがあったりするのです。
「いいね」にそこまでの想いを込める必要もないんでしょうけどね。
私はあの「いいね」を見る度に何となくオバケのQ太郎のO次郎を思い出すんですが、
オバQの弟のO次郎は「バケラッタ」という言葉しか言わないんですが、
喜怒哀楽の感情すべてを「バケラッタ」のひと言で表現するんですよね。
彼がフェイスブックを利用していたら「いいね」ボタンの代わりに
バケラッタ」ボタンを使っていたんじゃないかなんて想像するんですが、
「いいね!」が全部「バケラッタ」だったら何だか可愛いですよね。
このバケラッタは同じバケラッタでも少し違うニュアンスの違うバケラッタなんだろうなとか。
O次郎は感情表現豊かですからね。
今後は「ヤバい」で様々な感情を表現している若者を見たら、
「この人はO次郎なのだ」と思うようにすればその差異がわかるようになるんじゃないでしょうか。
バケラッタの現代版がヤバいなのかもしれません。
小池さんの「今日のラーメンはこれでーす」みたいな写真にたくさんのバケラッタが。
そんなオバQ版のフェイスブックに想いを馳せてみたりする私です。
バケラッタ(いいね)!