1年の色合い

気が付けば普通に寒いわけです。
気が付けばヒートテック2枚重ねなどという技を
DJが2枚使いする時のテクの如く繰り出しているわけです。
五十嵐を寒がらせる会の会員が私を寒がらせる活動に勤しんでいるわけです。
毎年ご苦労なことですねと声をかけたい衝動に駆られるのですが
会員は私に容易に姿を見せないのです。
どこにいるのだろう、会員の姿を求めて旅に出るべきであろうかと
さあ出発だ、今陽が昇る、ポンチョに夜明けの風はらませて〜と、
いっそ三千里をたずねようかと思うも
寒いのでやっぱいいや、ねーようっと、布団に猫の如くくるまって終わるのです。
そんな季節です。


先日は己の誕生日だったわけなんですが、
そんな「わーい俺バースデイやで〜」とはしゃぐような年でもないし、
「あ、今日は日曜日か」くらいのテンションでやり過ごすくらいの心積もりでいるも、
フェイスブックなるシステムが誕生日をことさらに重要視するシステムらしく、
「そろそろお前誕生日じゃね?みんなに祝って貰えよ」と促すのであり、
そのせいなのか「誕生日おめでとう」なるコメントを皆様からいただくに至るのですが、
それはとてもありがたいわけなのですが、
フェイスブックはなんであんなに誕生日を重要視するのであろうか、
全世界誕生日推進連盟みたいな民間機関がスポンサーに付いているのであろうかと
つい疑問を抱いてしまうのですが、それだけ世間の人は誕生日を重要視しているということでしょうか。
確かに1年の節目みたいな日ではあるわけですが。
しかし意識して「節目キターーー!」みたいに迎えるよりは
「あれ、さっきの節目だった?」くらいの力の抜け具合でも良いような気がするんですけどね。
そりゃあ!と1年分の荷物をどさっと重ねるというよりは、
そっと上から絵の具を重ねるくらいの静かなテンションで過ごしたいわけです。
違う色を重ねるも良し、お前結局また同じ色重ねてんじゃねーかでも良し。
それが私の絵画であることは間違いないわけですから。
若い頃は「おお、また白地に色を塗っちゃったよ!」と賑やかに誰かと共有したいものなんでしょうが、
もうある程度の年になるとそっと静かにその塗りを確認するくらいで良いのです。
祝うというよりも見守るくらいの距離感で良いのです。
フェイスブックにもそのくらいの塩梅のシステムを導入して欲しいものです。


とまあ、素直に「誕生日おめでとう」「わーいありがとう」と乗っかれば良いものを、
「おめでたい年でもないし」とか「絵の具がどうたら」と
理屈をこねる面倒くささを発揮する年頃になったなあと己の誕生日に静かに思った私です。
さて私は何色の絵の具を塗るんでしょうか。
果たして。