スマホ二宮状態

もう2月もずんずん進んでしまっています。
早いのです。


先日、朝の移動中に5個立て続けに信号に引っかかるという事態が起き、
ひとつの信号に30秒かかるとして5個で150秒、
つまり2分半を信号待ちに費やされた計算になり、
朝の2分半というと日中の20分半に換算されるくらい貴重な時間なのであり(五十嵐調べ)、
信号の馬鹿野郎、こちとら急いどるんじゃ空気読めや!と、
無機質なのにカラフルなあいつを朝からdisるに至ったのですが、
日々発生するこのようなプチ待ち時間を合わせるとかなりの時間になるわけで、
その時間をストックしておいて後でまとめて利用することは出来ないものかと
貧乏性の私はつい思ってしまうのですよね。
例えば信号や踏切や電車の乗り換えを待つ数分、
レジや施設の窓口や飲食店に並ぶ数分、
お湯が沸くまでの数分(及びカップラーメンが出来るまでの3分)、
PCがデータを読み込む時間やエレベーターを待つ数分など、
蓄積していくと日々のプチ待ち時間は結構な量になると思うのですよね。
誰かとの待ち合わせで待つ時間はその人と会う行為に含まれるし、
アトラクションや飲食店の順番を誰かと待つなんてのはある意味楽しい時間として機能しますが。
ほんの数分数秒の待ち時間は待ち時間としてしか存在しようがないのです。
それがつい勿体無いと思ってしまうのですよね。


昨今、スマホを見ながらの歩行が問題視されていますが、
その背景にはこのような待ち時間を何かで埋めたいという
人々の強い(無意識の)思いがあるような気がします。
何しろスマホタブレットの類いは日々のプチ待ち時間を埋めるのに最適なアイテムなんですよね。
ほんの30秒の待ち時間を埋めるのに文庫本を取り出すのも落ち着かないですし。
スマホなら数秒の間でも軽く情報や娯楽を得られるし、
誰かとコミュニケーションも取れるし、
何なら短い時間にひと仕事出来てしまいますからね。
その作業の延長でつい歩き出しても画面を見続けてしまうのでしょう。
まあ電車待ちの数分にひと仕事出来ちゃうなんてのは
嬉しいんだか哀しいんだかわからない事態ですけどね。
何だかせわしないというか、情緒がない感じもしてしまいます。
しかし昔から小学校に飾られてる二宮金治郎の像など見ると、
薪を背中に担ぎ運びながら同時に書物を読んでいるのであり、
あれって駅を歩きながらスマホいじってる現代の人々の姿そのものとも言えるわけで、
移動中も寸暇を惜しんで作業する勤勉さは讃頌されるのでしょうが、
日本人のせわしなさは昔から変わってないんだなと思ってしまいますね。
二宮金治郎が現代にいたら歩行中は書物から目を離せと駅で注意されたことでしょう。
いや、私は寸暇を惜しんで勉強しているんです、と言われたところで危ねーしという話で。


最近はテレビを見ていてもCM待ちの数分はスマホに目が行ってる視聴者も多い気がします。
(寧ろテレビ見ながらスマホに打ち込むのが日常の人もいるでしょう)
人と話してても会話の隙間にスマホを手に取る人も本当に多いですが、
人との会話の隙間さえも埋めようとするのはさすがに如何なものかと貧乏性の私も思うわけです。
自戒の念も含め気を付けたいものです。
余りに二宮金治郎状態だとせわしないし、
多少の待ち時間なら鷹揚に受け止めたい自分がいるのですが、
ついついこうして時間の隙間を見つけてはスマホでブログを綴っている自分もいるわけです。
困ったものですね。
しかしさすがに歩行中は危ないのでスマホを見るのは控えた方が良いでしょう。


そのうち金治郎像は歩きスマホを助長するから撤廃すべきとクレームつける輩も現れそうですけどね。
ドラマやら食べ物やら果ては村上春樹やら、
時間の隙間にスマホを眺めてはみなあれこれ文句言いたくなるんでしょうか。
やれやれという感じですね、現代。