コトバドレッシング

『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日、
という俵万智さんの短歌を毎年七夕の前日になると思い出すわけですが、
ここでいうサラダの味というのはサラダの素材そのものの味というより
ドレッシングの味のことなんでしょうね。
おそらくお手製の。
おそらく彼のために初めて彼女が作ってあげた。
ならば厳密に言うとドレッシング記念日なんじゃないかと思うわけですが、
それだと7文字に収まらないですからね。
短歌としてもネーミングとしてもサラダ記念日の方が語呂が良いわけです。
そのドレッシングが何味であるかとかは読む人が勝手に想像すれば良いわけです。
ドレッシングの語源はdressで、料理を盛りつけるみたいな意味があるらしいですが、
洋服を着付けるという意味も勿論あるわけで、
サラダにドレスを着せるというイメージで考えると何てお洒落なネーミングだろうと思うのですよね。
今日は何の服を着ようかしらと鏡の前であれこれ迷っている女子の姿がイメージされて、
サラダ可愛いじゃん、と思ってしまうのです。
そういう喚起されるイメージも含めていい歌だなあと思うわけです。


我々はこうしてサラダをdressして何てことのない日をdressして
言葉をdressして楽しんでいるわけですが、
そのドレッシング違うんじゃないのと思う事柄をしばしば見かけるわけです。
女性議員にかける下衆な言葉とか、架空の出張とかそれを誤摩化す稚拙な言葉とか。
「金目でしょ」みたいな下品な言葉をdressするセンスを見るにつけ、
高い立派なスーツを着ているけどあれは実は薄汚い塵を身に纏っているだけなのだなあと
スカスカな中身が透けて見えてしまうのですよね。
架空の出張疑惑の人に至っては言葉以前の号泣でしたけどね。
政治家の放つ何か言ってそうで結局何も言ってない拗くれたレトリックが
この世で最も情緒のない日本語だと思うのですが、
短いキャッチーな失言に関してもそのセンスのなさに愕然とするのですよね。
「サラダ記念日」のような詩情を携えた言葉とはほど遠いなあと思うわけです。


憲法の解釈というのも勝手に本来の味と違うドレッシングかけて食べようとしてるようなもので、
そのアメリカ産スパム味みたいなどぎついやつ、
そもそもの素材に合わなくないか?とか思ったりするわけです。
何度聞いても「え?それ今急いで決める必要性あるの?」と疑問に思うのですが、
そんなのがあっさり決まっていく現実に愕然とするわけです。
自分の思う「普通」が通用しない様に。


例の号泣の議員、私も「お笑いとして完璧過ぎる!」と爆笑に至りましたが、
いざお笑い観察フィルター外したらあれだけモラルの欠けた化け物が平然と世に生息していると思うと
現実社会のおそろしさに震える次第です。
ちょっと前のサムラゴーチ氏も同様ですけどね。
彼らの思考回路を理解することが出来ないし、
自分と同じように日本語を使っているけどまるで全然違う言語を話しているようで、
そのディスコミュニケーションが私にはとてもおそろしいのです。


サラダ記念日、みたいな言葉の情緒を信頼しながら言葉をdressしている(したい)自分なんですが、
そんなのを土足で踏みにじっていくような言葉や思考に抗いたいと強く思うこの頃です。