赤く塗れ!

浅草の台東区民会館という施設で定期的に行われている「伝統的なおもちゃや動くおもちゃを作ろう!」という催しに毎年講師として参加してるのですが、今年もそこで張子の雛人形の絵付け教室を行いまして。この催し、参加費が無料ということもあって毎年たくさんの親子連れで賑わうのですよね。張子の他にも独楽に絵付けをしてみようとか、レゴを組み立ててみようとかゴムの銃を作ってみようとかコンテンツも豊富で。
今回もわらわらと子供たちが集まり絵付けをするのを「わー上手だね〜」とか「いい色使いだね〜」などと褒めつつ指導していたのですが(基本褒めることにしているのです)、ひとり元気のいい4歳くらいの女の子が絵付けをし始めまして。この子は色々世話を焼いてくれるお母さんに向かって「いいの!向こう行ってて!」などと突っぱねたりするやんちゃな子で。その子は赤を塗ったと思ったらその上から青を塗ったり、緑を塗ったと思ったらその上から黄色を塗ったり、そこにまたオレンジを塗ったりと最早お雛様の顔や着物など関係なく色を塗り重ねることに夢中になり始めたのですね。最初は私も「わー、アート作品だね〜」などと褒めていたのですが、こういう「塗るという行為が気持ち良くなってしまう子」というのは結構多くて、そういう子の作品は最終的には全部真っ黒になるとか全面灰色になるとか一色に終着してしまいがちなのですよね。途中まではカラフルな配色でそれこそアート作品として成り立っているんですが。こういう最終的に一色になってしまう工程を見る度に、当初カラフルな配色でお洒落を楽しんでいた人が最終的にそれを突き詰めて全身黒ずくめのファッションに落ち着いたりする現象と似ているのかしらと思ったりするのですが、何しろその子も色々な絵の具を塗りたぐった挙げ句全部真っ赤になるという仕上がりになりまして。その子のお母さんはというと、最初は「お雛様のお顔は描かないの?」「着物の柄は?」などと大人の常識の範囲で聞いていたのですが、途中からああこれは子供特有の芸術作品だと理解したのか「カラフルで良いね〜」などと褒めるという路線に変更したのですが、最終的に赤単色に仕上がったので「あれ?全身真っ赤で良いの?」と疑問を呈しまして。いやそういうものですよ、と私は心の中で思いながら眺めていたのですが、その子が他の子と違うのは真っ赤になった雛人形にさらに赤を塗り重ねるという行為に及んだことで。もう真っ赤で塗る余地もないのに赤色の絵の具を執拗に塗り続けるのです。お母さんも「もう塗るところないでしょ、終わりで良いのね?」と聞くもその子は「まだ塗るの!」と言って聞かないのです。塗るという行為の気持ち良さにトランス状態に陥ったのか、筆を派手にぶん回し赤色を塗り重ねているのです。お母さんは「赤の上に赤色を塗っても同じでしょ!」「結果的に赤色で変わらないでしょ!」と正論を述べてやめさせようとするのですが、その子はもう赤色の虜になっているので聞かないのです。お母さんも業を煮やしたのか「ほらもう終わりにしよう!行くよ!」と筆を取り上げようとするとその子は「キ〜!」と怒り、「まだ続けるの!人にはそういう時があるの!わからないの?!」と大人びた台詞でお母さんを制止するのであり。「人にはそういう時がある」という台詞を4歳の児童から聞くとは思いませんでしたが、赤色を一心不乱に塗り続ける行為を止められない時というのはどういう時だろうとふと自分に当てはめるにつけ、飲み過ぎとわかりつつも「もう1杯!」「いやまだもう1杯!」「まだ飲むの!人にはそういう時があるの!わからないの?!」と酒を浴びるように飲んでしまう荒れた夜みたいなことかしら、それならわかるわかると思い、何だか深いことを言う女の子だなと感心してしまったのですが、赤色の絵の具ばかり無駄に浪費されてもかなわないという冷静な判断をする私もいて、「はいはい、もう赤色は終りね〜」と赤の絵の具をしまうという抵抗をもってその子の荒れた夜を終わらせるに至ったのですが、その子は「やだ!まだ塗るの!」と発狂したようにわんわんと泣き出し、最終的にはお母さんが強制的に外に連れ出すという結果に着地したので、子供の執着というのは凄いよなと思ってしまった次第です。その子の中で赤を塗り続ける美学みたいなものが生まれて、それを全うしようとしたのでしょうか。確かに人にはそういう時があるのかもしれませんが、4歳にしてそれを自覚しているのは凄いなと思った次第です。
こういう子がそのまま成長したら良く言えば頑固、悪く言えば人の言うことを聞かない協調性のない人と思われるのかもしれませんが、この執着を芸術方面に向かわせれば凄いものを作り出しそうな気もします。赤色の向こう側を発見するかもしれませんし。ルシファー吉岡のネタではありませんが「こういう奴がiPhone作るぞ!」みたいな独創性に繋がるかもしれません。もしくは赤に赤を重ねても結局赤にしかならないという真理を獲得してしまい、平凡に落ち着いてしまうという可能性もありますし。人がどう成長するかはわからないものです。未来はあらゆる方向を向いているのです。赤を巡る未来は。
しかしこういう「様々な色を塗り重ねて結果的に一色になってしまう」という現象は様々な場面で見られるような気がします。この現象を言い表す的確な言葉がないものかと思いつつ、その子の汚した赤にまみれたテーブルをせっせと掃除した私です。「掃除をするのは結局大人たち」という。その真理はすでに獲得している私なのですが。