桜と私

4月に入ってようやく日中は暖かくなって来ましたね。
近所の桜も満開になったようです。
ふわふわと淡いピンクで乙女の如く春めいています。
夜になるとまだまだ肌寒いのが難点ですけどね。
ついつい冬仕様の重ね着を継続してしまう私なんですが。
このしつこい肌寒さ、いつになったら我々の元を去るのでしょうか。
卒業したのに頻繁に学校訪ねて来て先輩風吹かしてるヤンキーのOBかって話です。
もうきみらの季節ではないのだよと告げてあげたいところです。
同様にいつまでも我々を脅かし続ける余震たるや。
もうあの人来なくていいよねと後輩たちに煙たがられているのに気が付かないのでしょうか。
空気の読めない輩です。


余震に脅かされようが原発問題に翻弄されようが季節は巡り春になるわけで。
毎年この時期になると大学に入学した頃の新鮮な気持ちを思い出したりするんですが、
今年も新しいページを捲ったという胸の高鳴りみたいなものを覚えたりします。
特に桜なんかを見たりすると。
現実がこんな状況に於いてもです。
この間近所の公園に1本だけ咲いてる桜の木を眺めつつビール1本を1人で慎ましく飲むという
プチ花見を密やかに敢行してみたのですが、なかなかの味わいでした。
1対1で桜と対話する感じが良いのですよね。
空気的に呑気に桜など見てて良いのだろうかみたいな気持ちが湧きがちですが、
花の佇まいや匂いや色味に触れ、それにまつわる記憶や想いなどと向き合うことで、
何となく地に足が着いた感じになる感覚というのもあると思うんですよね。
震災の地でも桜を見て癒されたり希望を抱いたりしている人は少なくないような気がします。


今どこを見ても現状を示す数値や現実的なデータとしての言葉が立ち並び、
(どれが正しくてどれが間違っているのかもよくわからない環境で)
日本の力を信じてるだの頑張ろうだのという共感としての大雑把な言葉が氾濫する状況で、
そういう言葉群の中から己の判断で現状を把握する行為は常にしているものの、
そういう言葉ばかり見ていると逆に途轍もなく現実から離れた詩情的な言葉に触れたくもなり。
今は心の機微などを繊細に紡ぐ表現の詩や小説を欲している自分がいたりします。
映画や音楽など他の芸術に関しても同様です。
これは現実逃避というより単にバランスの問題のような気がします。
花を眺めたり何か想いに浸ったりという詩情タイムが現実タイムの狭間にあって欲しいというか。
そういう感受性を刺激してくれる表現に触れたいという気持ちが今は大きいです。
私が今音を出したり言葉を紡いだり自分で表現をする上でも
向かう先はそこなんだろうなと桜を眺めながら思ったりしました。
社会的、政治的なメッセージや表現を発する人と同様のもしくはそれ以上の覚悟と確信を持って。


ネット上で話題になった斉藤和義氏の反原発ソングの動画を見て
私は氏のストレートな歌声とギターと言葉の力に素直に感動したのですが、
彼が常にハイポジションでコードを押さえているのを見て、
自分だったらカポを付けてキーを変えてローポジションで弾くなあと思い、
それが自分のアプローチなんだなと改めて思ったりもしました。
ローポジションだと解放弦が使えるので響きが綺麗になるし、
ハイを押さえてる時の音痩せが避けられるし、もう1本とアンサンブルが作りやすいし。
斉藤氏のリフはあのポジションじゃないと表現出来ないわけで、
あれがロックでかっこいいのであれがあの歌には正解なんですが。
彼の表現に共感しつつ自分のアプローチについて同時に想いを馳せたという次第です。


今年ほど桜に心動かされる年はないのではないか。
そんなことを思いつつ路端に淡い色彩を放つその可憐な姿に目を向けているこの頃です。