水際のラストボーイ

このところ大きな余震が続いていますね。
風のせいなのか地震のせいなのか気のせいなのかよくわからないけど
「何だか揺れている」という状態が日常化しているような感じです。
地震酔いというやつでしょうか。
日常揺れることが許されるのは葉っぱかブランコか思春期の乙女の恋心くらいなものです。
その他の物は揺れないでぜひ地に足着けていて欲しいものです。
揺れて落ち着かない地面に朝まで説教喰らわしたい気分です。
お前いつまでふらふらしとんねんと。
乙女の恋心が揺れるくらいなら友人女子が
「自分の気持ちに正直になりなよ」とか
「彼は彼なりに愛してくれてるんだって!」などと
乙女アドバイスすることで収まるんでしょうが、
地面の揺れとなると乙女アドバイスくらいでは収まるものではありません。
どうしたものでしょうか。


先日大きな余震が起きた時は私は映画館にて映画を見ていたのですが、
他の客みんな揺れに気が付いていながらも微動だにせず映画に集中していて
誰ひとり外へと避難する人がいず、
あれが大規模な地震だったら劇場にいた客全員死亡だったなと
あとで振り返って恐ろしやと思った次第です。
ただの余震で済んだから良いですけどね。
まあ私も内心「どうせ余震だし」と揺れ慣れによる余裕もあったし、
ああいう集団の現場での災害時には正常性バイアスがかかるゆえ、
みんなが動かないと自分も動かないという流れになりがちなのですよね。
大袈裟に動くのもなんですが、状況をよく見ることが常に重要になるなと思った次第です。
ちなみに今回は映画だったので作品自体は現場の状況に邪魔されず進行しましたが、
これがもしお芝居や演奏などのライブであった場合、
演者はもろにパフォーマンスに影響が出るので大変ですよね。
演技の最中に「あ、地震だ!」みたいな素が出てしまえばファンタジーは覚めるし、
かといって余りにも大きな地震であった場合、
お客さんの避難誘導など舞台上からする立場にならなくてはいけないし。
この間谷中でライブを行った際にはリハをしている最中に大きな余震があり、
演奏を中断したという場面があったのですが、
もし本番でそういう場面があれば「このままやり切って大丈夫か」
「揺れが収まるまで中断すべきか」「外へ避難か」と演奏中に判断が迫られるわけで、
演者はパフォーマンスに加えて状況を読むことが必要になるわけです。
演奏ならまだ中断、再開が容易ですが、
お芝居とかなら地震という現実からいきなり物語の世界へ戻らせるのはなかなか容易ではないでしょう。
今後舞台に立つ者は前提として余震というものを受け入れていかないといけないのですね。
いつだったか地震の際に中田カウス・ボタンが漫才をしていて、
大きな揺れの中「地球も笑っておりますわ」と不安に思う客をなごませたという話がありましたが、
地面の揺れを想定のものとして表現に組み込むというのもなかなか難しいものがありますよね。
物語が進行している場面に於いては。
物語の進行ということでは舞台に立つ者以外でも現実社会の営みに於いて
余震の影響で場が中断したり空気が変わることなんてのは大いにありますけどね。
冠婚葬祭の場とか何かの催しの最中だとか。
結婚式の途中の余震とか避けたいところでしょう。
(その場合「雨降って地固まる」的な慣用句が今後生まれるのでしょうかね、
「余震揺れて絆固まる」みたいな。)
そんな席での余震は本当に邪魔以外の何物でもないですからね。
津波に水道水に汚染水にと水による災害が続いただけに、水が差されるというべきなのか。
この不穏なる状況は長期化の様相を見せています。
相撲における水入りといった感じで何度も仕切り直して戦っていくことになるのでしょう。
こんな災害は水引の結び切りの如く、繰り返さず一度で終わって欲しいものです。
原発問題については簡単に水に流すというわけにはいかないでしょうけどね。
と、何とか水でこの文章にオチをつけるべく必死に水々書いてみた次第ですが、
水の問題というのはなかなか容易ではないようです。
今後は酸性雨に濡れながら荒野を歩いていかねばならないのでしょうか。
綺麗な水をたたえた井戸を探して。