11月のスニーカー

先日近所の靴屋が閉店とのことで覗いてみたらセールなどやっており、
セールとか割引とかいう言葉が大好物な自分としてはチェックせずにはいられず、
店内に入り獲物を狙う鋭き眼光を放ちながら見やると某メーカーのスニーカーがあり得ない安価で売っており。
現品限りということだったんですがサイズもちょうど良かったので
これは買えという指令(誰の?)だなと思い色違いで2足購入したところ、
汚れてるからという理由でさらに割引していただくという嬉しき事態も起き。
不意のタイミングで己のスニーカーコレクションが2足増えるに至ったのですが、
思えばついこの間そこそこ高級なスニーカーを銀座にて購入したばかりで(ブログに書きましたが)、
急に「おニューのスニーカーをたくさん持ってる奴」になり、
これは己のスニーカー運が上がったということなのか、
スニーカーの神に気に入られたということなのかと色々考察するに至ったのですが(そんな神がいるのかって話ですが)、
まあ多様な場面で履き替えて足下からお洒落を楽しんでみようかなどと
お洒落達人みたいなことを考えてみた11月某日というわけなのです。
「おニューのスニーカーをたくさん持ってる奴」言うても3足ですけどね。
古いのと合わせても6足くらいだし。
コレクターの方なんかはもっとたくさん所有していることでしょう。
私は今でこそ何足か履き回すというローテーションを組むようになりましたが、
小学中学高校大学の初頭くらいまで1足のスニーカーを破れて穴が開くまで365日履き潰すというスタイルを通しており、
大学時代友達か誰かに「何足か持って履き回すと長持ちするのに」と言われ
そんな手があったのか!と雷に打たれたかのように気が付き(気が付くの遅いですが)、
それ以来2、3足を順番に履き回すようになったのですが、
私は気に入ったらそればっかり履いてしまう傾向があり、
気が付くと同じのを履いていて2軍3軍のスニーカーが「俺も出してくれよう」とばかりに見ており、
すまぬすまぬと思いたまに履くと靴擦れなどで足が痛くなるなんて体たらくで、
足下からのお洒落など到底出来ぬ身ではあるのですけどね。
靴を上手に履き回している人などを見ると「ほほう」と感心してしまうのです。
靴があんまり汚れていると印象が良くないので古くなったらすぐ履き替えたいとは思うんですが、
履き慣れた汚れたスニーカーの心地良さというのはあるもので。
長年履いているとスニーカーというより「相棒」みたいなどっしりした安心感が足下に生まれ、
お前の良さは俺だけが知ってるぜ、と肩を叩いてやりたくなるのですが(どこが肩かわかりませんが)、
おかげで汚いスニーカーが中々捨てられないという事態が起きてしまうのですよね。
靴屋で新しいのを買って古いのをその場で捨てる人など見かけたら「何て薄情な輩!」と思ってしまうのです。
ドラマ「北の国から」でそういうシーンありましたけどね。
主人公の純と蛍がお父さんに買ってもらったスニーカーを1年間ずっと履いていたんですが、
ある日お母さんが亡くなって葬儀のために東京に来た際、お母さんの新たな婚約者である伊丹十三
「お前ら靴が汚いぞ」と注意されて靴屋で新しい靴を買ってもらうのですよね。
その際店員から「古い靴はどうしますか?」と聞かれ伊丹十三が「捨てちゃって」と言って
古い靴をあっさり捨てられてしまうのですよね。
そのあとの葬式の最中ずっと純はお父さんが買ってくれた靴をあっさり捨ててしまったことを気にしていて。
お父さんが980円で買ってくれた(この980円というのがまたぐっと来るのです)このスニーカーと一緒に
純と蛍は1年間北海道の日々を雨の日も風の日も毎日過ごしたのだという回想シーンがあって。
この980円のぼろぼろの靴が純と蛍とお父さんの富良野での生活の象徴となっているのですよね。
それをあっさり捨ててしまった後悔が純に残り。
それで純と蛍が葬儀のあと「あの捨てた靴まだあるかな」と夜に靴屋へ探しに行くんですよね。
当然店は閉まってたんですが、周辺のゴミ捨て場に捨ててあるんじゃないかとごそごそ探していると
お巡りさんに「お前ら何やってるんだ」と声を掛けられて。
「靴を探していました」と応えると「お前らちゃんと靴を履いてるじゃないか」と言われ、
「これはお母さんの婚約者が買ってくれたもので。捨てちゃった古い靴を探してるんです」と言うと
「お母さんはどうしたんだ」と聞かれ。
純が「お母さんは三日前に死にました」と言うと、お巡りさんが「確かにここに捨てたんだな?」と
一緒に靴を探してくれるんですよね。
お巡りさんが一生懸命に靴を探してくれる姿を見て純が「不意に涙があふれて来たわけで」
と泣きそうになるんですが、それを見ている私はもう号泣というわけです。
あのシーンは何回見ても泣けるんですよね。
その前に純が東京へ戻った時に古い物を捨ててすぐ新しい物を買うという傾向に疑問を抱くくだりがあるんですけどね。
古いスニーカーで富良野での生活を経て成長した子供たちを表現しているというわけですね。
汚れた靴を捨てる際にはいつも北の国からのそのシーンが頭をよぎるのです。


おニューのスニーカーを3足所有するに至った私ですが、
彼らを履き潰しやがてお別れする時がいつかやって来るのでしょう。
その時は彼らと過ごした日々を回想しながら感謝と共にお別れしたいものだと
まだ履き慣れてもいないのにすでにしんみり思ったりしているこの頃です。
この靴たちで私はこれからどこを歩くのでしょうか。
そんなことを思いながら散歩に身を投じる11月某日なのです。