よるべなさなんてのはいつものことだろ

今日も肌寒かったですね。
昼間は日差しがあるからまだいいのですが、
(でも昼間、猫が突然不機嫌になったかのような
不可解な雷雨がありました)
夜になってくると、ああ、まだ完全な春じゃない、
冬の名残りが私に試練を与えている!
と、この肌寒さに暖房すら入れてしまう私なのですが
この試練はいつまで続くのでしょうか。


昨日は昨日で出かけようとしたら大雨に見舞われて、
土砂降りの中機材を持ってスタジオへ入ったのですが、
道中、機材をかばって傘の中で小さくなっていたら
自分がどんどん無力で小さな存在のようにも思えてきて、
嗚呼、私の音楽はこの雨に勝てるのだろうか果たして。
などと弱気にすらなってしまったのですが、
何だかどうも天気に翻弄されてばかりの私です。
まあこういう暖かさと肌寒さの共存や落ち着かない天候が
春っていう季節の気候の特色なんですけどね。
私から半袖という概念がなくならないうちに
いい加減暖かくなると良いのですが。


ところで先日、保坂和志氏の新刊「途方に暮れて、人生論」を
読んだのですが、目から鱗の鋭い観点と語り口に
改めて感心しながら熟読してしまいましたよ。
この人は小説家としての文体とは別に
哲学者、批評家としての文体も持っていて、
この深く高度な思考の上にあの小説の文体が成り立っているのかと
彼の作風、文体の説明しにくい魅力の理由を探るうえでも
こういうエッセイは役に立つし興味深いのですが、
まあそういうの関係なく知らない読者が読んでも普通になるほどな。
と感心出来る読みやすい本だと思いました。


私が読んで印象に残ったのは「あやふやさ」と「よるべなさ」
についての考察なんですが、
彼が述べているのは、
「社会的に役に立つとされる勤勉さとは別にある、
『何もしない』というただ時間の流れにいるということが
実は芸術などの表現活動には大切なことではないか」という論で、
形而上学的な関心が心を占めている、つまりは
形のない霞のようなことを考えている=何もしていないという、
途上の、到達点さえ見えない時間のプロセスにこそ
音楽、文学、絵画などの表現における
「言葉で説明出来ない」本質が存在するという論で、
「そういう本質を表現に流し込むには不安定な時間が必要」
だという思考は確かに本質を突いているように思いました。
「何かを創ったり表現したりする限り、不安や不安定から
逃れる事は出来ない」ですからね。
実際、小説家になるべく「一日何枚原稿を書く」と
目標を掲げても、その目標をこなすだけで良いという意味で
それは楽になってしまっていて、
むしろ到達から遠ざかっているというのはあると思いました。
(まあ彼は「到達からの逆算」という思想自体があやういもので
到達があるのかどうかも当人にはわからないものだと言ってます)
保坂氏はここで荘子の「逍遥遊」を引用して
「漠然とした時間の経過」について説明しているのですが、
まあ詳しく知りたい方や興味を持った方は
実際に彼の文章で読んでみることをお薦めします。
こういうのは私よりも若い人が読むと良いのではないでしょうかね。
で、この話には続きがあって
こういう形而上学的な事柄(文学や絵画、音楽などの芸術)こそが
実は社会においての主体を育む大切な事である、
とも述べられているのですが、
(そしてそれは「教養」という言葉で語られているのですが)
まあ長くなるのでその話はまた別に書きたいと思いますが
これも読んでてなるほどなあと思いましたよ。


実際、単純に希望だの絶望だの二極化出来ないあやふやな状態で
今だによるべなさの途上にいる私としては
何となく励まされたような気にもなりました。
まあこの保坂的な文体とか志向(思考)とかって共感出来ない人は
共感出来ない(わからない)のでみんなに薦めはしませんが
私はなるほどなあ、なんて思いましたよ。