宮本むなし物語

関西方面に行くとやたら目にする定食屋チェーン店の「宮本むなし」ですが、
十三にも何店舗かあるのですよね。
あの店名の由来は何なのだろうとふと思ったんですが、「むなし」という言葉が何なのかが気になりますよね。
看板に宮本武蔵ぽいイラストが描かれているので武蔵が元ネタで間違いないと思うんですが。


私が思うにあれは江戸時代の剣豪宮本武蔵が剣の道を極めるのに日々修練を欠かさず、
常に強くなるためにどうすべきか思想していた若き頃、ふとした瞬間に己は何をしているのだろう、
こうして剣の修行をすることが果たして人生に役立っているのだろうかなどと疑問が生じ、
己の存在を含む全ての事象に虚無を感じ、「む、虚しい!この世のすべてが虚しい!」と嘆き、
「今の我は言うなれば『宮本虚し』であるな」などと思わず駄洒落を口にし、
その数秒後には「はっ、我は何という戯れ言を口にしてしまったのだ!む、虚しい!何もかも!」
とスーサイド寸前にまで落ち込んで頭を掻きむしっていたところ、偶然いつも彼が行く食堂の親父が通りがかり。
「何だ、武蔵ではないか、どうしたのだ」と声を掛けると
「虚しいのさ。己の剣の道も、この世の全ても。マジでやってられねーよ!」と自暴自棄風な言葉を吐くので、
親父は黙って風呂敷から握り飯をひとつ取り出し彼の前に差し出したのです。
「ほら、黙ってこれ食え」
それは親父が拵えた白飯と塩だけのシンプルな握り飯でした。
それを見た武蔵はそういえば空腹であったことを思い出し、
美味しそうなその握り飯のフォルムと匂いに思わずごくっとつばを飲み込み、
親父の手からそれを奪い取るとむしゃむしゃと夢中になって食らいついたのです。
それは実に美味しい握り飯でした。
親父の愛情が手の汗から出る塩となって滲み適度なしょっぱさを演出し、
白飯のふっくらとした炊きあがり感が生きる力を代弁しているかのような見事な仕上がりで。
今まで食べた中でナンバーワンと言っても過言ではない見事な握り飯でした。
そんな握り飯をノンストップノンブレスで食べきった武蔵ははあ、と息を吐き、
その直後己が心身共に満たされていることに気が付いたのです。
嗚呼、我は生きる希望を見出している、生きようとしている、この世界に!
「親父!凄いぞ!握り飯を喰らったら元気が出て来た!我は剣士なり!」
武蔵はすっかり元気になって親父に言いました。
親父は「そうだろう。腹が減ってる時は満たされていない状態なのだ。
それを満たしてやれば前に進む力も湧いてこようものだ」と諭し、
武蔵は「そうか。剣の道の基本はそこにあったのか!」と感銘を受け、
三食きちんと食べることが全ての道の基本であると説き、
武蔵の名著「五輪書」にもそのような記述を成したのです。
それを読んだ定食屋チェーン店の社長は「これだ!」と膝を叩き、
己の店に「宮本むなし」と命名したのです。
人生を戦う剣士であるサラリーマンや学生さんや主婦や全ての生きる人たちが
ふと空腹で虚しさを感じた時、それを満たしてあげられるような存在でありたい。
そんな希望を込めて「宮本むなし」と。
そうしてチェーン店宮本むなしは産声を上げたのです。


と、ここまで書いてから「宮本むなし」で検索し、ウィキペディアで由来を調べたところ、
「社長の子供が幼い頃、宮本武蔵の事をうまく言えず、『宮本むなし』と言っていた事からきている。」
とのことでした。
意外にあっさりというか、そんな感動的なエピソードがあるわけでもなく。
現実はそんなものなのですね。
手塚治虫先生の名著「どろろ」のタイトルの由来が
「近所の子供が『泥棒』をうまく言えず『どろろう』と言っていたところから取った」
というものであるというのを思い出しました。
宮本むなし」と「どろろ」の意外な接点を思いがけず見出した次第です。


みなさんも虚しさを感じた時など「宮本むなしー」と口にして何か食べてみると良いかもしれません。
マンモスうれピー」にちょっと語感が似ていますが。
虚しさも消えるかもしれません。