41歳の秋だから

しかし気が付けばもう11月になっているわけで、時の流れの早さに驚くというか衝撃さえ受けているこの頃です。あっという間過ぎて何かの間違いじゃないのかとついカレンダーを二度見するものの、二度見ても三度見ても今年の残りはあと2ヶ月弱で間違いないのであり、本当に1年て早いなあとしみじみと実感しながら毎日を過ごしています。
ここ最近は何やかんやと仕事の方が立て込んでおり、家に籠ってせっせと絵付けをする地味な日々が続いているのですが、集中して作業をしているとあっという間に夜になってしまい、それからご飯食べて風呂入って酒飲んで(酒飲む時間だけは確保出来ているという不思議さよ)寝るという1日を繰り返しているとあっという間に1週間経ってしまうのであり、そして1ヶ月経ってしまうのであり、そうなると自ずと1年経つのも早いはずで、子供時代の永遠に続くと思われた夏休みの1ヶ月の長さって今の3年分くらいなんじゃなかろうかと大げさでなく思ったりしています。1年の体感時間が1年よりどんどん短くなっていくことが大人になるということなのかもしれないと齢41を迎えてしみじみ思う私です。
しかし41歳というとバカボンのパパと同い年ということであり、幼少の頃「41歳の春だから〜」という少し物哀しい旋律のバカボンのエンディング曲をおじさんの悲哀と共に受け取っていた私としては結構身に沁みるものがあり、「これでいいのだ」というパパの力強い肯定の言葉の前に「自分はこれでいいのかなあ、果たして」という気弱な言葉が口をつく現状であるのですが、「まあこれでいいのか、取りあえず」と受け入れるしか道はないのであり、靴紐を結び直してくいっと水を飲み、その足を前に出し続ける決意をしてみた私です。
そんな日々の傍らにおいて猫のミルクはというとのんびり寝ていたり、ただただ座っていたりおもちゃと戯れていたりと優雅な生き様を見せており、猫には猫の時間があってそれを全身で生きているのだなあと思いつつも単純に羨ましい気持ちでそれを眺めてしまうのですが、私が寝ていると「そろそろ起きて遊んでくれよう〜」と起こしに来たり、仕事をしていても「美味しいおやつくれよう〜」とみゃーみゃー鳴いて来たり、「遊んでくれよう〜」と足元を攻撃して来たり、私の時間に不意に入り込んで来る瞬間が言うなれば文章の読点や句点のように、流されていく時間のアクセントとして機能してくれるのでありがたいのです。毎日聞いているラジオと猫が私の生活に寄り添って、流れていくだけのものから救ってくれているようです。お茶を入れたりレコードを引っ繰り返したり猫と遊んだりという読点や句点を打っているうちに日々は次の季節へと突入し、本格的な冬を迎えるのでしょう。寒がりの私には厳しい季節ですが、同じく寒がりな猫がいるので共に闘う姿勢で迎え撃とうとしています。寒がり相棒がいるというのは心強いことです。
ところでちょっと前にツイッターにて見たSEALDsのデモの映像でスチャダラパーが「今夜はブギーバック」を歌う様子を見て、41歳の私世代の大人の心のベストテン第1位であろう楽曲に乗せて「民主主義って何だ?」という問いを発せねばならない切実な時代なのだなと、90年代のオザケンとスチャダラの多幸感溢れる映像との対比にしみじみ感じ入るものがあったのですが、この独自の空気感が2015年という年のものであることは後に記憶に留まるであろう予感はしています。ブギーバックが20年を経て着地した場所がデモの最前線であることを当時誰が予想したでしょうか。それこそバカボンの主題歌のように西から上ったお日様が東へ沈む不条理な出来事が現実としてまかり通る世の中になりつつあるのを肌で感じ私は危機感を抱いたし(抱いているし)、「それはよくないのだ」と声を上げることの重要性を強く感じた1年でした。(まあまだ今年終わってないですが)。
これでいいのだ、と肯定しながら笑って暮らせる世の中になれば良いなと単純に思うこの頃です。
そんな年末です。まあまだ11月ですけどね。